全日本スキー連盟のインストラクターになって20年になります。
公務員時代はお金をいただくレッスンはできなかったので、今は私のレッスンを気に入ってもらい、お金をいただけることをありがたく思っています。
スキー教師というと、ただ’スキーを教える上手な人’というイメージがありますが、実はそうではありません。
滑る技術はもちろんのこと、雪山の知識や指導法の理論、そして人と人が接する人間的資質、それらを高めた人だけが指導員の資格を得ることができます。そして、その資格を取得するために血の滲むような努力があります。
スキーを通じて沢山の人と出会い、人間的な深みや厚みを学ぶことができるのもこのインストラクター醍醐味といえ、20年も続けてこれた理由といえます。
この記事をよんで、私がWeb制作とは異なる業種からも、社会人としての多くの学びを得てきたことをわかってもらえたら幸いです。
インストラクターの受検と師匠・仲間との出会い
師匠・仲間との出会い
私は6歳でスキーを始め、人に習うことなくずっと我流で滑ってきました。
そんな感じで過ごしてきた中の 2001-2002シーズン、互助会のスキー教室をきっかけに検定を経験し、基礎から学ぶことの面白さにとりつかれてしまいました。そして1級に合格し地元のスキークラブに所属することになったのです。
そして翌2002-2003年のシーズン。ここで初めて山形県の準指導員を受検しました。
その時に出会ったのが後の師匠となるEさんです。
Eさんは当時、山形県のブロック技術員(指導員の先生)をしていた人で、いわば地元のスキー界では超トップ、山形県でもトップの指導力を誇る人でした。
そんな実力者ですが、人に威張るようなことはなく、誰にでもフランクで、人望が厚く、私もクラブに所属してからすぐにその魅力に気づいた一人です。
けれども、一度スキーを履いたら決して妥協することはせず、特に指導者を目指す人に対しては、理論を徹底的に叩き込みます。
その方から直に教えていただきながら、私はスクールにも何度も通い、年間滑走日数70日を越える滑り込みを行いました。仕事帰りにウェアの下にスーツを着たまま滑ることもありました。
同じタイミングで準指受検をする仲間2人ともここで出会い、Eさんの禅問答のようなスキーについての問いかけの答えを必死で探しながら打ち込んでいったのです。
師匠に教えられた社会人としての姿
当時の私は36歳、Eさんは私よりも一回り上の社会人としての大先輩です。
私は、当時教員を離れ、財団職員として仕事をしており、その仕事の合間を縫ってスキーをしていました。仲間2人は共に自営業と皆仕事はバラバラです。
師匠のEさんは大工さんの仕事をしながら、冬場はインストラクターとして蔵王でレッスンをしています。
私たちの受検するシーズンからは、本業の大工さんの仕事が忙しくなり蔵王レッスンも非常勤となり、日曜日になると、蔵王のスクールにレッスンを申し込んで教えてもらう感じでした。
平日は地元のスキー場のナイターでミニレッスンのお願いすることもありました。
私たちは受検の日が近づいてくると、もっとEさんから滑りを見てもらいたいという思いが強くなり、3人で相談して、大工さんの仕事がある土曜日にレッスンしてもらえないか、Eさんにお願いしたことがあります。
もちろん、大工さんの仕事ができない分の日当は3人で手当するということでお願いしたわけです。
すると、私たちはEさんから、静かに諭されたのです。
「いいかい、お前さんたち。スキーを極めたい気持ちはわかるが、誤ってはいけないよ。 僕たちはスキーだけで食べているデモンストレーターではないんだ。それぞれ仕事を持っている。 その仕事をしっかりやったご褒美としてスキーができるんだということを忘れてはいけないんだよ。 例えば、シーズン始めに研修会で蔵王に指導員が集まるのは、一年間仕事を頑張ったことをみんなで称えながら確認する場でもあるんだよ。だから、僕は大工の仕事に誇りを持っているし、その仕事を休んで君たちにスキーを教えることはできない…。」
私はものすごい衝撃を受けました。
それまで、Eさんはお願いすれば自分たちのために引き受けてくれると思っていたので、私たちは自分たちのことを恥ずかしく思いました。
自分たちの浅はかな考え、合格したいというだけの独りよがりの考えをEさんは見事に喝破したのでした。
スキー界の大先輩から、社会人としての責任、仕事に向かう姿勢を諭された瞬間でした。
1点差、準指導員最受検の失敗
2月に行われた山形県準指導員検定会。朝日自然観スキー場。
受検の検定員の中にはEさんもおりました。
私たちはこれまでのEさんから学んだ全てのことを出し自信を持って臨みました。
しかし、3人のうち私だけ1点足りず不合格。
その日の夜、クラブで今回の受検者3人のための慰労会がありました。もちろんそこに参加しましたが、私は応援してくれた仲間に対して申し訳ない思いでいっぱいでした。
また、せっかく合格した2人に対して、楽しい宴になるはずが、自分の失敗で宴会の雰囲気に水を差してしまったこともとてもつらく感じていました。
私は、仲間の前で自分の不甲斐なさを謝罪すると、とてつもなく涙があふれてきたのです。
すると話の最後の方で、今回の合否の決定事情をEさんが語ってくれたのです。
それによると、私は最後まで合否ラインの俎上に上がっていたらしいです。
準指は県連単位の開催なので、その後の育成や成長度も加味して合格ラインが決まるらしく、そのライン上に私が入っていたということです。
最終的な合否の判断は主任検定員をはじめとした検定員の方々が相談するので、検定員だったEさんも意見を求められたそうです。
その時Eさんは、「自分が関わっているからといって忖度せずに厳しく線引きして落として欲しい」と言ったということを宴の席で教えていただいたということでした。
私は正直その話を聞いた時は
「こんなに努力したのに、どうしてわかってくれないんだろう、同じクラブなんだから何とかしてほしかった・・・」
となぜか悲しい気持ちに力が抜けていく感じになったことを今でも覚えています。
でも、客観的に見ても力不足だから落ちたわけで、仕方ないと受け入れるしかありませんでした。
その時は、Eさんがどんな気持ちでいたのかを理解する余裕もなかったのです。
抜け殻状態からの脱出
その後のシーズンは、仲間への申し訳なさからスキーを履く気になれず、もうスキーを辞めようかという気持ちになり3週間が過ぎていきました。
3月も後半になり、クラブで納会を兼ねて春スキーに行こうという話になり、付き合いだから行ってみるかということになりました。合格した2人は検定員受検のため今回は不参加だったので、申し訳ない気持ちが和らぐかなということもありました。
そしてEさんもスクールがひと段落したということで、参加することに。
今回のクラブ納会は、1泊2日で蔵王の全山全コースを一気に滑走しようという企画で、とにかく春の腐れ雪をガンガン滑るというものです。
春の雪はザブザブで、私はあまり得意ではなかったのですが、Eさんから
「さたけ!今日は俺のすぐ後ろを同じように滑ってこい!」という指示がでました。
私は指示に従い、ずっとついていくことに。
クラブ員からは、「Eさんの後ろ専属なんてうらやましー」という声も。
この滑り方は前の人のシュプールをトレースすることで、荷重や切り替えのタイミング、スピード、弧の調整までを身体で覚えることができる指導法なのですが、通常は多くの講習生がいるのでマンツーマンではなかなか出来ないのです。
しばらく、Eさんの背中を追って滑っていくと、不思議な感覚が身についてきました。
春の腐れ雪なのに、全然疲れないのです。
普段の自分の滑りだったらもうあっという間にヘロヘロになって、音を上げてしまっているはずです。
「なんだろう、この感覚は・・・」
そうです。私に足りなかったのは、この雪面とのやりとり、力のバランスのかけ方だったのです。
それは言葉で言うだけでは決して伝わらない内容でした。
Eさんはそれを自分の背中をみて滑りながら、私に教えてくれたのです。
その日の夜。
私はEさんに今日得た感覚を伝えたところ、
「来年は大丈夫だな!」と笑顔で応えて、美味しそうに熱燗をぐいっ口に運ぶのでした。
師匠の骨折、その時自分は
翌年、私は一人で受検することになりました。
もちろん、Eさんのもとで、修行して受検に臨むつもりでいました。
ところが、シーズンインが近づいたある日。
Eさんは自宅の雪がこい作業中に両足踵を骨折するという事故に遭い救急車で運ばれ、そのシーズンはスキーどころではなくなりました。
私はショックでしたが、スキーができなくなったEさんの気持ちを思うと、自分のことなんて大したことはありません。
そこで「一人で何とかしなくては」という思いで練習を始めました。
そんな矢先、地元に近いスキー場のスクールで指導していたY先生から声がかかりました。
「Eさんが大変な状況だから、うちで練習しないか」
Y先生はEさんよりも先輩で元全日本のデモも務めたことのある人物。
私は人が繋いだこの縁を大切にして受検にのぞむことにしたのです。
土日は日中滑ってビデオを撮り、帰りに病院に寄ってEさんから指導を仰ぐ、そんなことを何度も繰り返しました。
考えてみたら、スキーやりたくてもできない患者のもとに、自分の滑りのビデオ持ち込むとか、さたぼーは残酷ですね。反省です…。
結果、この年の受検は、\2点オーバーで何とか合格/を果たしました。
支えてくれた仲間、スキーは縁を繋ぐ
この受検を通して私が嬉しかったことは、Eさんをはじめとしたクラブの仲間が、自分一人のために丸2日間通してサポートしてくれたことです。
受検する自分が滑りだけに集中できるように、昼食の場所を押さえてくれたり、ビデオを回してくれたり、携帯電話でゴールの情報をスタート地点に伝えてくれたりです。前年合格した仲間は一緒に宿に泊まり込んでくれたりしてくれました。
そして、Eさんは退院後すぐにゲレンデにきて、いろいろと滑る前に指示を出してくれたのです。
もちろん、スキーは履けません。
まだリハビリ中のおぼつかない足で歩いて検定会場まで上がってきてくれたのです。
私はこの時の姿はきっと一生忘れないと思います。
Eさんからは、2年にわたる受検の中で、厳しい中にも優しさを感じる指導というのは、こうした行動や姿勢で人に伝わるものなんだということを教えてもらいました。
クラブの仲間は、仕事の業種や環境は違いますが、”スキーを楽しく”という一点においてつながる存在であり、その絆は時として仕事をも超越する存在であることを学びました。
SAJ公認指導員として
2年後、私は今度は指導員の受検に臨み無事に一発で合格を果たしました。
ここでも仲間やEさんのサポートを受け自信をもって滑りに集中することができました。
指導員検定は全国規模で他県の準指資格者が一堂に会するので雰囲気にのまれることがあるということでしたが、私はこの準指の時の経験によって自信を持って自分の滑りを表現することができたと振り返れます。
Eさんや仲間の存在が私を本当の意味で大人にしてくれたのだと思っています。
スキーインストラクターはただスキーを教える存在ではないということ。スキーを通じて人と人をつなぐ心を私は教わりました。
そんなことを常に思いながら、これからも私はゲレンデに立ち続けていきたいと思います。